解釈

2010年2月6日 日常
スメタナの生涯の略歴をwikiで読んだ。
最後は、哀しいというか、悲惨な感じかな。
「モルダウ」という曲を聴くのには、余分な情報のような気がする。

この間紹介した方(例の亡くなった後も残されてるサイト)で、上原彩子の解釈が正しいとか間違っていないとか、書いていたことをふと思い出した。
あのときの違和感。

解釈なんて、正しいも間違いもないと思う。
絵画であれ、彫刻であれ、小説であれ、音楽であれ、
作品が生まれ公表された瞬間、それは作者の手を離れて、一個の作品として独立すると思う。
それは、聞く人、見る人、読む人、それぞれの自由な解釈に委ねられると思う。
その解釈の数きとか嫌いはあっても、正しいとか間違いとかはないはずだと思う。
それは、その作品の作者でも、言ってはいけないことだと思う。

もし、作者が「それは違う、これはこういう意味だ!」というのであれば、それを見る人、聞く人、読む人にわかるように作者自身が努力しておくべきであって、それが伝わらないのであれば、それは作者の力量の問題だと思う。
どうしても、他人が自由に解釈をするのを受け入れられないのであれば、公表しなければ良いだけだと思う。

何がいいたいのか、と言えば、「解釈」とか何でもいいし、作者の伝記とかも無用だと思う。
作者がどういう生涯を辿ったのかと、その作品の価値とは、なんら関係ないと思う。
純粋に、その作品と向かえばいいと思う。


ぼくは、広隆寺の弥勒菩薩の作者がどんな人か知らない。
どういう事情で作られたのかも知らない。
長谷川等伯がどういう人物かも知らない。
ミケランジェロの生涯も知らない。
プロコフィエフの生涯も知らない。
(リストは残念ながら知っている。知らなきゃ良かった。)

でも、作品の価値は何も変わらない。



とか、書いてみたものの、
でも、作者の生涯を知ることで、その作品に興味が沸いたり、愛着が生じたり、そういうことはあるよな~。

う~ん、知らなきゃいいというもんでもないか。

でも、スメタナについては、聴力障害の範囲で、その原因とかを詮索しなければ良かった。
ヌレエフや三島由紀夫のホモセクシュアルとか、知りたくなかった。
あと、フルトヴェングラーとか、小椋桂とか、クリストファー・クロスの顔も知りたくなかった。
(フルトヴェングラーの名前を思い出せなかったので、wikiで検索してたら、「ベートーベンウイルス」という言葉を見つけた。
知らないウイルスの名前かと思ったら、韓国のテレビドラマのタイトルだった。


三島といえば、今、彼が生きていれば、絶対に極右政党の党首として、勢力を伸ばせるだろうな~。




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