今回の騒動のおかげ(という言い方は良くないけど)、牛のことを勉強する機会にはなった。
宮崎牛、松阪牛、佐賀牛、但馬牛とか、ブランド牛がたくさんいるけど、
実は、元を辿れば、但馬牛を購入してきて交配してできた牛であり、あるいは、但馬牛の子牛を買って育てた牛であるらしい。
つまり、「和牛」と呼ばれるものはすべて「但馬牛」。
今回の報道で、「松阪牛の約半分が宮崎県の生産・・・」とか聞いて、
おいおい、それじゃあ、松阪牛じゃなくて、宮崎牛じゃん!
と思ったけど、「松阪で育てれば松阪牛」という定義になっているらしい。
だから、松阪牛の中には、宮崎生まれの牛もいれば、兵庫生まれの牛もいるし、岐阜生まれの牛もいる。
ふ~ん…、納得いかんわ!
まあ、こういう事実が分かったので、こうも言える。
「宮崎から牛がいなくなっても、宮崎牛は残る!」
もう1つ、知った事実。
見事にサシが入った、高級肉として知られる「霜降り肉」は、実は、最高級ではないと言うこと。
実は、売られている牛肉は、「雌牛」と「去勢された雄牛」の2種類なんだけど、
(子孫を残せる雄牛は、ごくごくごくごく限られた種牛だけで、圧倒的大部分の雄牛は、お前の精子はいらん!というわけで、生後まもなく去勢されてしまうらしい。)
去勢された雄牛でないと「サシ」が入らないらしいので、「霜降り肉」は、実は「去勢された雄牛」の肉なんだけど、これが、去勢されて不自然にそだった分だけ実は美味しくないらしい。
美味しいのは、自然に育った雌牛なんだって。
だから、最高ランクは雌牛にのみ与えられるそうだ(見た目は、サシが入らない分、美しくはないらしい)。
ふ~ん・・・、今まで見た目で騙してきたんかい!
なんだかな~。
但馬牛が美味しいとか、神戸牛が美味しいとか、松阪牛が美味しいとか・・・、
ぜ~んぶ一緒じゃん!
どこが美味しいとか、意味ないじゃん!
何のためのブランドなんだ???????????????
宮崎牛、松阪牛、佐賀牛、但馬牛とか、ブランド牛がたくさんいるけど、
実は、元を辿れば、但馬牛を購入してきて交配してできた牛であり、あるいは、但馬牛の子牛を買って育てた牛であるらしい。
つまり、「和牛」と呼ばれるものはすべて「但馬牛」。
今回の報道で、「松阪牛の約半分が宮崎県の生産・・・」とか聞いて、
おいおい、それじゃあ、松阪牛じゃなくて、宮崎牛じゃん!
と思ったけど、「松阪で育てれば松阪牛」という定義になっているらしい。
だから、松阪牛の中には、宮崎生まれの牛もいれば、兵庫生まれの牛もいるし、岐阜生まれの牛もいる。
ふ~ん…、納得いかんわ!
まあ、こういう事実が分かったので、こうも言える。
「宮崎から牛がいなくなっても、宮崎牛は残る!」
もう1つ、知った事実。
見事にサシが入った、高級肉として知られる「霜降り肉」は、実は、最高級ではないと言うこと。
実は、売られている牛肉は、「雌牛」と「去勢された雄牛」の2種類なんだけど、
(子孫を残せる雄牛は、ごくごくごくごく限られた種牛だけで、圧倒的大部分の雄牛は、お前の精子はいらん!というわけで、生後まもなく去勢されてしまうらしい。)
去勢された雄牛でないと「サシ」が入らないらしいので、「霜降り肉」は、実は「去勢された雄牛」の肉なんだけど、これが、去勢されて不自然にそだった分だけ実は美味しくないらしい。
美味しいのは、自然に育った雌牛なんだって。
だから、最高ランクは雌牛にのみ与えられるそうだ(見た目は、サシが入らない分、美しくはないらしい)。
ふ~ん・・・、今まで見た目で騙してきたんかい!
なんだかな~。
但馬牛が美味しいとか、神戸牛が美味しいとか、松阪牛が美味しいとか・・・、
ぜ~んぶ一緒じゃん!
どこが美味しいとか、意味ないじゃん!
何のためのブランドなんだ???????????????
斎藤環と茂木健一郎の往復書簡(2)
2010年5月16日 日常あ~、何だか無性にいらいらする!
さっきも読み直したんだけど、あんなんでいいのかな?
確かに知識はあるんだろうけど、あんなの公開して恥ずかしくないのかな?
ホント、エ~~!!!!!って感じが今でも続いている。
う~~~~んんんん。
ちょっと冷静になって書いてみるけど…。
斎藤氏が根本的に誤っているのは、「人工知能」と「人間の脳」を同じ土俵(次元)で考えていること。
というのは、「人工知能」は記憶を(デジタル)言語で蓄積するが、「人間の脳」は記憶を言語で蓄積しないからである。
それは、言語(人間が認識する形での言語という意味だが)を持たない動物も、「映像」としての記憶とか、あるいは「匂い」に関する記憶とか、あるいは「音」に関する記憶とかを持っていることからも明らかである。
このように、全くシステムが異なる「人工知能」と「人間の脳」を同一平面で語るとは、呆れてものが言えない。「人工知能」というものが、(デジタル)言語で綴られている限り、100億年経っても、「人工知能」は「人間の脳」にはなれないのである。
というわけで、斎藤氏の理論は、根底から崩れている。
いくら人工知能だの、コンピューターだのを語っても、絶対に「脳」には行き着かないのである。
どうしてこんなことがわからないのか?
ぼくは、この往復書簡を読む以前は、斎藤環という人物を、「懐が深いなあ」という思いと、「細かいところを突っ込む人だな」という思いが錯綜しつつも、「真っ当な議論」ができる人だと思っていた。
だから、この往復書簡が始まると知ったとき、マジでワクワクしていた。
ところが、第2書簡(茂木氏)でいきなりストップしてがっかりしていた。
だから、思いがけずも再開していて、夢中で読みに入ったのに…哀しいです。
彼らが、現在の日本の脳科学者、あるいは精神科臨床医として、どの程度の地位を占めているのか、ぼくは知らない。
しかし、文化論とかの異分野ではなく、自分の専門分野(あるいはそれに近い分野)であるにもかかわらず、彼らの論理レベルがこの程度であることに、驚愕と困惑と悲哀を感じざるを得ない。
たぶん、知識はあるんだろう。やたら、文献の引用は得意なようなので。
しかし、他人の言葉に依拠しすぎていると思う。
ラカン、ラカンとうるさいけど、ラカンが正しいかどうかさえ危ういのに、そのラカンに依拠している論理の危うさに気がつかないのか。
まあ、それにラカン=構造論的言語学だから、言語学に問題を強引に引きずり込もうとする理由も分かるんだけど。
ただ、「もしも」専門の精神医療の分野でも、ラカンを下敷きに分析しているとしたら、それはどうかなと思う。
どちらにしろ、この程度の論理レベルしか持ち得ない人間が、もし脳科学とか、精神科学をリードしているとしたら、ぼくはこの分野の研究を信じることができなくなる。
彼らの罪は大きい。
ただし、斎藤環氏が、「引きこもり」に関して述べている内容に関しては、やはり「まっとうで参考になる」ことは疑いがない。
結局は、ラカン等の「言語学」に関しての知識が浅薄であるにもかかわらず、それを敷衍して他分野の論評するからマズイんだろうね。
さっき気づいたんだけど、ぼくの他にも(ぼくが気づくくらいだから、当然なんだけど)彼の論理の危うさを指摘しているレビューがあり、ほとんどぼくの見解と重なり合っている。
http://www.amazon.co.jp/%E9%96%A2%E4%BF%82%E3%81%99%E3%82%8B%E5%A5%B3-%E6%89%80%E6%9C%89%E3%81%99%E3%82%8B%E7%94%B7-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E6%96%8E%E8%97%A4-%E7%92%B0/dp/4062880083
「仮想敵を設定して、その仮想敵の現説を矮小にまとめあげて叩く!」という彼の論法は、彼の本質らしいね。
さっきも読み直したんだけど、あんなんでいいのかな?
確かに知識はあるんだろうけど、あんなの公開して恥ずかしくないのかな?
ホント、エ~~!!!!!って感じが今でも続いている。
う~~~~んんんん。
ちょっと冷静になって書いてみるけど…。
斎藤氏が根本的に誤っているのは、「人工知能」と「人間の脳」を同じ土俵(次元)で考えていること。
というのは、「人工知能」は記憶を(デジタル)言語で蓄積するが、「人間の脳」は記憶を言語で蓄積しないからである。
それは、言語(人間が認識する形での言語という意味だが)を持たない動物も、「映像」としての記憶とか、あるいは「匂い」に関する記憶とか、あるいは「音」に関する記憶とかを持っていることからも明らかである。
このように、全くシステムが異なる「人工知能」と「人間の脳」を同一平面で語るとは、呆れてものが言えない。「人工知能」というものが、(デジタル)言語で綴られている限り、100億年経っても、「人工知能」は「人間の脳」にはなれないのである。
というわけで、斎藤氏の理論は、根底から崩れている。
いくら人工知能だの、コンピューターだのを語っても、絶対に「脳」には行き着かないのである。
どうしてこんなことがわからないのか?
ぼくは、この往復書簡を読む以前は、斎藤環という人物を、「懐が深いなあ」という思いと、「細かいところを突っ込む人だな」という思いが錯綜しつつも、「真っ当な議論」ができる人だと思っていた。
だから、この往復書簡が始まると知ったとき、マジでワクワクしていた。
ところが、第2書簡(茂木氏)でいきなりストップしてがっかりしていた。
だから、思いがけずも再開していて、夢中で読みに入ったのに…哀しいです。
彼らが、現在の日本の脳科学者、あるいは精神科臨床医として、どの程度の地位を占めているのか、ぼくは知らない。
しかし、文化論とかの異分野ではなく、自分の専門分野(あるいはそれに近い分野)であるにもかかわらず、彼らの論理レベルがこの程度であることに、驚愕と困惑と悲哀を感じざるを得ない。
たぶん、知識はあるんだろう。やたら、文献の引用は得意なようなので。
しかし、他人の言葉に依拠しすぎていると思う。
ラカン、ラカンとうるさいけど、ラカンが正しいかどうかさえ危ういのに、そのラカンに依拠している論理の危うさに気がつかないのか。
まあ、それにラカン=構造論的言語学だから、言語学に問題を強引に引きずり込もうとする理由も分かるんだけど。
ただ、「もしも」専門の精神医療の分野でも、ラカンを下敷きに分析しているとしたら、それはどうかなと思う。
どちらにしろ、この程度の論理レベルしか持ち得ない人間が、もし脳科学とか、精神科学をリードしているとしたら、ぼくはこの分野の研究を信じることができなくなる。
彼らの罪は大きい。
ただし、斎藤環氏が、「引きこもり」に関して述べている内容に関しては、やはり「まっとうで参考になる」ことは疑いがない。
結局は、ラカン等の「言語学」に関しての知識が浅薄であるにもかかわらず、それを敷衍して他分野の論評するからマズイんだろうね。
さっき気づいたんだけど、ぼくの他にも(ぼくが気づくくらいだから、当然なんだけど)彼の論理の危うさを指摘しているレビューがあり、ほとんどぼくの見解と重なり合っている。
http://www.amazon.co.jp/%E9%96%A2%E4%BF%82%E3%81%99%E3%82%8B%E5%A5%B3-%E6%89%80%E6%9C%89%E3%81%99%E3%82%8B%E7%94%B7-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E6%96%8E%E8%97%A4-%E7%92%B0/dp/4062880083
「仮想敵を設定して、その仮想敵の現説を矮小にまとめあげて叩く!」という彼の論法は、彼の本質らしいね。
斎藤環と茂木健一郎の往復書簡
2010年5月15日 日常斎藤環という名を見て、例のあの往復書簡のことがふと頭に浮かんだ。
で、「まあ、あのまんまなんだろうな」と思いつつ、覗いてみると…、
http://sofusha.moe-nifty.com/series_02/
おお!復活しているではありませんか!!!!
ただ、斎藤氏が「お互いの本質的な異質性を見きわめる」という個人的な(?)もくろみを入れたためか(第1書簡)、もうお互いが、言いたいことをいっている感じで、あまり議論がかみ合っていない。
で、新しくルールが改定されたんだけど、今度は斎藤環氏がいきなりの1ヶ月の遅延。
「遅延した場合、離縁した理由を書く」という改定ルールも無視。
遅延には遅延で返す!というわけでもないでしょうがね…。
議論がかみ合っていないだけでなく、第3書簡(斎藤)以降、「脳は心を記述できるのか」という主題自体からずれてきている。
第2書簡までは、なんとか主題をギリギリ外さずに来ていたのに。
だから、もうめちゃくちゃ。
特に、アバターを出してきて、「CGもプログラム言語での表現だから、結局は言語でほとんど表現できる」とか書いている部分とか。
おいおい、じゃあ、人間の脳がプログラム言語で構成されているというのか???
人間の脳は、プログラム言語だけでいきなりイメージはできない。プログラム言語は、マシーン(コンピューターとか)を介在させて、初めて人間がイメージできる映像(画像)に具体化されます。
この辺、「言語」という枠でくくり出すことによって、異なる構造を持つ言語を同一の土俵(議論)にうまく誘導しています。騙しているのか、無自覚なのか…、とにかく論理的ではありません。笑っちゃいます。
しかも、その誘導(?)に茂木氏も、気づいていない…。
あくまでも「脳は心を記述できるか」が主題なのに…、はあ…。
(当然、頭はいいんだろうけど???、ずれてる。頭がいいから???、ずらすのは得意なんだろうけど、それじゃあ、目的が達成できないよね。)
この辺り、首相、官房長官の工学部コンビにも当てはまる。自分の中に、明確なグランドデザインがないからずれていく。ただ、理系は、グランドデザインを描く科学じゃないから(宇宙物理学とかは別かな)しかたないのかも。そういう意味で、変にずれて議論が細かいのも、自然科学者特有の現象か?しかも、専門分野以外に関しては、超大雑把!
オカルト茂木VSオタク斎藤、という図式で考えれば、笑えるけど。
誰も言っていないようなので、あえて書いておくけど、
この企画の失敗は、田原総一朗のような司会者を置かなかったということに尽きると思う。いや、自然科学系だから、立花隆の方が適当か。
とにかく、しきる人間がいないから、原稿も遅れるし、主題もずれるし、議論もかみ合わない。
主題からずれたら、議論する意味ないじゃん!
で、「まあ、あのまんまなんだろうな」と思いつつ、覗いてみると…、
http://sofusha.moe-nifty.com/series_02/
おお!復活しているではありませんか!!!!
ただ、斎藤氏が「お互いの本質的な異質性を見きわめる」という個人的な(?)もくろみを入れたためか(第1書簡)、もうお互いが、言いたいことをいっている感じで、あまり議論がかみ合っていない。
で、新しくルールが改定されたんだけど、今度は斎藤環氏がいきなりの1ヶ月の遅延。
「遅延した場合、離縁した理由を書く」という改定ルールも無視。
遅延には遅延で返す!というわけでもないでしょうがね…。
議論がかみ合っていないだけでなく、第3書簡(斎藤)以降、「脳は心を記述できるのか」という主題自体からずれてきている。
第2書簡までは、なんとか主題をギリギリ外さずに来ていたのに。
だから、もうめちゃくちゃ。
特に、アバターを出してきて、「CGもプログラム言語での表現だから、結局は言語でほとんど表現できる」とか書いている部分とか。
おいおい、じゃあ、人間の脳がプログラム言語で構成されているというのか???
人間の脳は、プログラム言語だけでいきなりイメージはできない。プログラム言語は、マシーン(コンピューターとか)を介在させて、初めて人間がイメージできる映像(画像)に具体化されます。
この辺、「言語」という枠でくくり出すことによって、異なる構造を持つ言語を同一の土俵(議論)にうまく誘導しています。騙しているのか、無自覚なのか…、とにかく論理的ではありません。笑っちゃいます。
しかも、その誘導(?)に茂木氏も、気づいていない…。
あくまでも「脳は心を記述できるか」が主題なのに…、はあ…。
(当然、頭はいいんだろうけど???、ずれてる。頭がいいから???、ずらすのは得意なんだろうけど、それじゃあ、目的が達成できないよね。)
この辺り、首相、官房長官の工学部コンビにも当てはまる。自分の中に、明確なグランドデザインがないからずれていく。ただ、理系は、グランドデザインを描く科学じゃないから(宇宙物理学とかは別かな)しかたないのかも。そういう意味で、変にずれて議論が細かいのも、自然科学者特有の現象か?しかも、専門分野以外に関しては、超大雑把!
オカルト茂木VSオタク斎藤、という図式で考えれば、笑えるけど。
誰も言っていないようなので、あえて書いておくけど、
この企画の失敗は、田原総一朗のような司会者を置かなかったということに尽きると思う。いや、自然科学系だから、立花隆の方が適当か。
とにかく、しきる人間がいないから、原稿も遅れるし、主題もずれるし、議論もかみ合わない。
主題からずれたら、議論する意味ないじゃん!