金曜日の天気予報は、曇り・・・。
天気が悪いと、別のデートを考えようね。
やっぱり、ひまわりは、夏の青空を背景にしないと感動できないような気がするから。
どうせ見るのなら、思いっきり感動したい!
(感動できるといいな~♪)
天気が悪いと、別のデートを考えようね。
やっぱり、ひまわりは、夏の青空を背景にしないと感動できないような気がするから。
どうせ見るのなら、思いっきり感動したい!
(感動できるといいな~♪)
脳死に関して、いろいろと議論がある。
特に、子どもの脳死に関しては、現代の科学でもよくわかっていない。
http://www.lifestudies.org/jp/ishokuho.htm
ただ、個人的な考えを言うと、
どうせ、科学に「真理」なんてないのだから(重力があるとか、地球は太陽の周りを回っているとか、牛は殺して食べても良い、とか、全部「真理」ではなく「決め」なので)、
別段、「脳死を一律人の死とする」と国会で「決め(国民的合意)」ても、それはそれでいいと思う。
ただ、どうせ決めるのなら、もうちょっと考えて決めて欲しい。
1.まず、どうして「人の死」を「臓器移植法」という特別法で決めるのか、よくわからない。ちゃんと、「人の死に関する法律」とかの名前の法案できちんと決めて欲しい。
2.臓器提供を「無償」と「決め付けて」議論するのはどうかと思う。
卑近な例で言うと「献血」だが、いい加減にに、きちんとした対価を払うべきだと思う。
無償なら無償でもいいが、外国から血液(ないし血液製剤)を買うのは止めよう。
だいたい、血液に関して、赤十字やら、各医療従事者やら、みんなボランティア(無償)で行為しているわけではない。少なからずそれでご飯を食べているわけだ。どうして、血液提供者だけに「無償」を強いるのか、意味がわからない。
「献血」推奨者は、「黄色い血」の話を強調するけど、検査技術が確立した現在とは時代が違う話だよね。主張の根拠が失われている。
同様に、臓器にもきちんと対価を支払おう。
肉親の臓器を売ってお金儲けするのは・・・、という意見もあるでしょうが、例えば、病気以外の事故で死ねば、損害賠償という形でお金を法外にもらうわけだし、同じでしょう。
臓器の提供者側と受領者側で、中立的第三者機関を媒介に臓器売買契約を結び、受領者と提供者が双方に(かつ公に)明確とし、受領者は提供者(もしくは遺族)にきちんと対価を支払う。
医療関係者が不透明な(国民から見てわからない)方法で行う現在の臓器移植を改めない限り、臓器移植事例は増えないし、最も懸念すべき「臓器目当ての殺人」がかならず「地下」で増加する。
最も忌むべきは、子どもの臓器目当ての「誘拐殺人」でしょう。
闇に(地下に)もぐらさないように、オープンな臓器売買契約を行うべきだと思う。もちろん、対価は国会で「決め」ればよい。保険の適用も、もちろんありだ。
どうして、こうしないんだろう。不思議だ。
誰も言わないのが、もっと不思議だ。
ネットサーフィンしても、見つからないし。
特に、子どもの脳死に関しては、現代の科学でもよくわかっていない。
http://www.lifestudies.org/jp/ishokuho.htm
ただ、個人的な考えを言うと、
どうせ、科学に「真理」なんてないのだから(重力があるとか、地球は太陽の周りを回っているとか、牛は殺して食べても良い、とか、全部「真理」ではなく「決め」なので)、
別段、「脳死を一律人の死とする」と国会で「決め(国民的合意)」ても、それはそれでいいと思う。
ただ、どうせ決めるのなら、もうちょっと考えて決めて欲しい。
1.まず、どうして「人の死」を「臓器移植法」という特別法で決めるのか、よくわからない。ちゃんと、「人の死に関する法律」とかの名前の法案できちんと決めて欲しい。
2.臓器提供を「無償」と「決め付けて」議論するのはどうかと思う。
卑近な例で言うと「献血」だが、いい加減にに、きちんとした対価を払うべきだと思う。
無償なら無償でもいいが、外国から血液(ないし血液製剤)を買うのは止めよう。
だいたい、血液に関して、赤十字やら、各医療従事者やら、みんなボランティア(無償)で行為しているわけではない。少なからずそれでご飯を食べているわけだ。どうして、血液提供者だけに「無償」を強いるのか、意味がわからない。
「献血」推奨者は、「黄色い血」の話を強調するけど、検査技術が確立した現在とは時代が違う話だよね。主張の根拠が失われている。
同様に、臓器にもきちんと対価を支払おう。
肉親の臓器を売ってお金儲けするのは・・・、という意見もあるでしょうが、例えば、病気以外の事故で死ねば、損害賠償という形でお金を法外にもらうわけだし、同じでしょう。
臓器の提供者側と受領者側で、中立的第三者機関を媒介に臓器売買契約を結び、受領者と提供者が双方に(かつ公に)明確とし、受領者は提供者(もしくは遺族)にきちんと対価を支払う。
医療関係者が不透明な(国民から見てわからない)方法で行う現在の臓器移植を改めない限り、臓器移植事例は増えないし、最も懸念すべき「臓器目当ての殺人」がかならず「地下」で増加する。
最も忌むべきは、子どもの臓器目当ての「誘拐殺人」でしょう。
闇に(地下に)もぐらさないように、オープンな臓器売買契約を行うべきだと思う。もちろん、対価は国会で「決め」ればよい。保険の適用も、もちろんありだ。
どうして、こうしないんだろう。不思議だ。
誰も言わないのが、もっと不思議だ。
ネットサーフィンしても、見つからないし。
「1院制」は、良いにしても・・・
2009年7月7日 日常「10年内に国会一院制」という内容を、自民党がマニフェストに盛り込むらしいが、
それって、10年以内に「憲法改正」をするっていうこと???
なんだか、うわさには聞いていたけど、この衆議院解散直前のどさくさまぎれに、とんでもないもん、出してきたな~。
これって、真意は「10年内に国会一院制」というよりも、「10年以内に憲法改正」にあるよね。
いろいろな条文を改正するという「おまけ」つきで。
もう、自民党、終わったね・・・。
それって、10年以内に「憲法改正」をするっていうこと???
なんだか、うわさには聞いていたけど、この衆議院解散直前のどさくさまぎれに、とんでもないもん、出してきたな~。
これって、真意は「10年内に国会一院制」というよりも、「10年以内に憲法改正」にあるよね。
いろいろな条文を改正するという「おまけ」つきで。
もう、自民党、終わったね・・・。
amazon.co.jp のレビューからの引用
村上春樹の小説は「駄作」か「名作」かという両極端な評価に分かれることが多いようです。
本作もその例に漏れることなく、やはり評価は賛否両論ですが、事実として「ノルウェイの森」は、ノーベル文学賞候補に毎年選ばれるほどの作家の代表作であり、世界の各国でベストセラーになるほどの小説であるわけですから、本質的に「名作」なのか「駄作」なのかはさておき、それだけの「魅力」が、小説内のどこかにあることだけは誰にも否定できないことでしょう。
「駄作派」の人たちには、夏目漱石や谷崎潤一郎などの、日本文学の名作と呼ばれる小説に数多く触れ、読書経験が豊富で、いわゆる「文学通」といわれる方が多いようです。
否定の方法も、「展開や登場人物の行動に根拠がない」や「過去の名作のような深みがなく薄っぺらい」など、自分の文学観に照らし合わせた意見がほとんどで、平たく言ってしまえば「私にわからないのだから、面白い訳がない」という気持ちが、「駄作派」の大部分を占めている本心のような気がします。
逆に「名作派」の人たちには、あまり文学に詳しくない方が多いようで、「何だか分からないけど、面白い」という無邪気な感想が頻繁に見受けられます。
ここで注目したいのは、文学に詳しい人たちは小説の魅力を理解できず、そうでない人たちには、理解できるという、逆転の現象が起こっていることでしょう。
とにかく「駄作派」の、否定の調子の激しさはすごいもので、留まるところを知りません。
もはやそれは悪意と言ってもよいほどで、その矛先は作品を飛び越えて、著者本人、果てには、小説を肯定する読者にまで及ぶ勢いです。
しかし「名作派」の人たちは、とりたててそれに反論する様子もなく、自分の周りに壁を張り巡らせて、ひそっりと、ひとりで小説を楽しんでいるような、そんな風情です。
そこには、まさに、「根拠のない悪意」と「自閉」という、村上春樹の小説世界そのものの図式が浮かび上がってくるようです。
村上春樹氏は「日本文学には残念ながら僕が求めているものはなかった」というニュアンスのことをどこかに書いていますし、人の情念をどこまでも深く追究して表現しきる、日本文学の伝統ともいえる名作の数々には、確かに惚れ惚れするものがありますが、単に、著者はそこを目指してはいない、ということでしょう。
「駄作派」の方々には、著者が表現しようとしているものは何であるのかを汲み取ろうとするやさしさが、もう少しあってもいいように思いますし、「名作派」の方々には、自分を惹きつけるものは一体何なのか知ろうとする意志を持ち、「駄作派」の人たちの土俵に、多少なりとも歩み寄ろうとする、そんな勇気も必要なのでは、と思います。
そして、ちょうどそのあたりにこそ、村上春樹の表現したいものも、あるのではないでしょうか。
*******
ということで、どうやらぼくには、村上春樹氏に対する優しさが欠けているようです。
村上春樹の小説は「駄作」か「名作」かという両極端な評価に分かれることが多いようです。
本作もその例に漏れることなく、やはり評価は賛否両論ですが、事実として「ノルウェイの森」は、ノーベル文学賞候補に毎年選ばれるほどの作家の代表作であり、世界の各国でベストセラーになるほどの小説であるわけですから、本質的に「名作」なのか「駄作」なのかはさておき、それだけの「魅力」が、小説内のどこかにあることだけは誰にも否定できないことでしょう。
「駄作派」の人たちには、夏目漱石や谷崎潤一郎などの、日本文学の名作と呼ばれる小説に数多く触れ、読書経験が豊富で、いわゆる「文学通」といわれる方が多いようです。
否定の方法も、「展開や登場人物の行動に根拠がない」や「過去の名作のような深みがなく薄っぺらい」など、自分の文学観に照らし合わせた意見がほとんどで、平たく言ってしまえば「私にわからないのだから、面白い訳がない」という気持ちが、「駄作派」の大部分を占めている本心のような気がします。
逆に「名作派」の人たちには、あまり文学に詳しくない方が多いようで、「何だか分からないけど、面白い」という無邪気な感想が頻繁に見受けられます。
ここで注目したいのは、文学に詳しい人たちは小説の魅力を理解できず、そうでない人たちには、理解できるという、逆転の現象が起こっていることでしょう。
とにかく「駄作派」の、否定の調子の激しさはすごいもので、留まるところを知りません。
もはやそれは悪意と言ってもよいほどで、その矛先は作品を飛び越えて、著者本人、果てには、小説を肯定する読者にまで及ぶ勢いです。
しかし「名作派」の人たちは、とりたててそれに反論する様子もなく、自分の周りに壁を張り巡らせて、ひそっりと、ひとりで小説を楽しんでいるような、そんな風情です。
そこには、まさに、「根拠のない悪意」と「自閉」という、村上春樹の小説世界そのものの図式が浮かび上がってくるようです。
村上春樹氏は「日本文学には残念ながら僕が求めているものはなかった」というニュアンスのことをどこかに書いていますし、人の情念をどこまでも深く追究して表現しきる、日本文学の伝統ともいえる名作の数々には、確かに惚れ惚れするものがありますが、単に、著者はそこを目指してはいない、ということでしょう。
「駄作派」の方々には、著者が表現しようとしているものは何であるのかを汲み取ろうとするやさしさが、もう少しあってもいいように思いますし、「名作派」の方々には、自分を惹きつけるものは一体何なのか知ろうとする意志を持ち、「駄作派」の人たちの土俵に、多少なりとも歩み寄ろうとする、そんな勇気も必要なのでは、と思います。
そして、ちょうどそのあたりにこそ、村上春樹の表現したいものも、あるのではないでしょうか。
*******
ということで、どうやらぼくには、村上春樹氏に対する優しさが欠けているようです。